函館のカトリック 改定

函館初心者のためのページ

  ー駆け足で知る函館の特徴ー

    神戸海星女子学院OGのために

イトルを入力します
ここにタイトルを入力します
     
                 
   HOME

   最後に覧下さい

        聖堂内部と祭壇の詳細写真

        十字架の道行きの詳細写真

   上記のカラー写真は全て小原雅夫撮影
    他サイトですので、戻る時はHOMEではなく
        ←をタップしてください

                   
       
◎アイヌは北海道の先住民なのですか?

 アイヌに関する研究はお世辞にも進んでいるとは言えない
が、それでも、アイヌの出自や文化の起源は、遺伝学や考
古学の研究のおかげで、現在ではかなり明らかになってい
る。

●アイヌと縄文人の関係
2年ほど前に、「国立総合研究大学院大学」が、アイヌ、本土
人、琉球人及び近隣諸国の住民との遺伝子を比較した研究報
告を出したが、これを見ると明らかに、アイヌ、本土人、琉球

人の3日本列島人は近隣の国の人達と遺伝的な相違が見
られ、特に、アイヌと琉球人は「縄文的な遺伝的要素」を多く有
していると結論付けている。つまり、遺伝的な相関関係は下
記の通りとなる。

     本土人≒琉球人≒アイヌ≒縄文人

なお、アイヌが縄文的な要素を日本列島人の中では一番多く
有している事は確かだが、アイヌには縄文的な要素の他に
極東ユーラシア大陸(主にオホーツク沿岸の先住民)の遺伝
的な要素も見られる。これは近世アイヌが縄文人をベースに
オホーツク人との混血である事を示している。

●北海道の歴史
北海道は旧石器時代から人の痕跡が見られ、その後、縄文文
化、続縄文文化、擦文文化、アイヌ文化と時代は流れていく。

一時期、オホーツク人により道東にオホーツク文化が形成さ
れるが、全体的に北海道の文化を見た場合、文化的な断絶は
見られない。つまり、北海道の歴史は旧石器時代から近世

アイヌまで綿々と続いて来たのである。

●結論
和人の北海道進出の第一陣は7世紀頃に行われたようであ
るが、それ以前から北海道にはアイヌの祖先となる人々が
定着していたことは考古学上、明らかになっている。従っ

て、遺伝学的な見地及び考古学的な見地から見て、アイヌ
は少なくとも北海道先住民(北海道縄文人)の末裔であ

る事は確かな事実なのである。







◎函館(以前は箱館)は江戸時代から松前藩
  の支配下だったのですか?

戦国末期より基本は松前藩支配だったが、藩主の無策や力
不足・幕府の都合によりしばしば函館を含む地域の支配は
削減または停止させられた。1807年には北海道から完全に
追い払われ福島県伊達市に転封させられた事も。その際は
幕府直轄の函館奉行が治めた。




 1802〜1807年 箱館奉行所置かれる
  ロシアの南下に対する関心が世情で盛り上がり、寛政四年
(1792年)には
ロシア使節ラックスマンが根室に来たりした
が、藩主道広は北方危機について何ら対策を講じようとはし
なかった。松前藩だけの力では蝦夷地の防衛は至難であると
考えた幕府は、段階的に松前藩から領地を召し上げ、津軽

藩・南部藩・仙台藩などに出兵を求め、警備と開拓を図り領土
の保全を図ろうとした。

 1854〜1868年 箱館奉行所置かれる
 1853年ペリーは、浦賀の久里浜で条約の締結を要求し、翌
年の再来日を宣言安政元(1854)年3月3日、神奈川(横浜)で
ペリーと幕府との間で日米和親条約が調印され、これにより
日本は、伊豆の下田港と松前地の箱館港の両港において
アメリカ船に対し薪水・食料・石炭等の欠乏品を供給し、
かつ日本に漂着したアメリカの漂流民を扶助し、両港に護送
してアメリカ船に引渡すこととなった。開港の時期は、下田
港が調印日、 箱館港が翌年3月とされた。
 函館が選ばれた理由は、「箱館は(津軽)海峡の東の入口、
北緯約四二度のところに位置しており、しかもこの地域を巡
洋するアメリカの捕鯨船舶の停帆地として、どの点から見て
も便利な地理的位置を占めている。その多くは、毎年この
海峡を通って、鯨を追跡して日本海へ抜けているのである」
であるうえ、天然の良港だった点も。
箱館が第一号の国際港となる以上松前藩には任せておら
れない、国を挙げて対応する必要が生ずるだろうからと、松
前藩より箱館及び同所より5〜6里四方の地を取り上げて
幕府直轄とした。
 
 更には安政5年6月19日(1858年7月29日)に日米修好通商
条約
が結ばれて箱館が貿易港として開港する事になるのだか
ら、幕府直轄は適切な判断であった。


 1868年 箱館奉行所所有者移転 箱館支配は新政府に
 
 
 1867年 大政奉還 1868年(明治元年)戊辰戦争最後の戦
いとなる箱館戦争。

松前藩主は新政府に従って館藩、館県と変遷したが箱館支配
は出来なかった。




◎箱館開港物語   
    箱館奉行所・五稜郭・弁天岬台場

日本が欧米に対して全面的に開国したきっかけは1853(嘉永
6)年のペリー来航ですが、カムチャツカ半島からベーリング
海にかけて勢力を伸ばしてきたロシアは、樺太・千島、さら
には不凍港を求めて蝦夷地にも進出の機をうかがい、日露
両国の衝突は必然でした。1792(寛政4)年に女帝エカテ
リーナ二世の特使ラックスマンが、大黒屋光大夫ら漂流
船員の送還という名目で根室と箱館に来航し、あわせて国
交通商を要求します。幕府は北方に目を向けざるをえず、
東蝦夷地を松前藩統治から幕府直轄領とし、1802(享和2)
年に箱館奉行所を設置します。

豪商・高田屋嘉兵衛は日露対立の最中、幕府との協力によ
り、択捉・国後、根室の漁場を開拓し、海産物を箱館(現在
の函館)に集荷。それらを関西方面に運ぶ中継港として、
箱館は重要な役割を果たすようになります。その後、嘉兵
衛はロシアに捕らえられながらも、彼は思慮深く温厚な性格
であったため、すぐに船長の信頼を得、船長室への自由な
立ち入りを許されるようになります。得た財産を使って、
箱館に下水道を引いたり、函館山に植林をしたリ、人々へ
の還元にも力を尽くしました。
しかし、ロシアとの密貿易の嫌疑で、1833(天保4)年に高
田屋の膨大な財産が没収され、箱館は一時火の消えた
町となります。

1854(安政元)年、翌年に控えた開港の下調べをするため、
ペリー提督率いるアメリカ艦隊が箱館に来航しました。情報
不足の松前藩はもとより、地元住民も大混乱に巻き込まれま
す。翌1855(安政2)年にアメリカをはじめ、イギリス、
ロシア、オランダと次々に和親条約(1854)を締結し、
緊急避難港、そして薪水・食料の補給港として世界に門
戸を開きました。さらに4年後には修好通商条約(1858)
で本格的な国際貿易港として横浜、長崎と共に開港し、
各国の捕鯨船や商船そして軍艦が続々と箱館港を訪れ
ます。

鎖国を解いた幕府は、諸外国に対する防衛策として、ペリー
来航の2カ月後に箱館とその遊歩地域5里(約20キロ)四方
を松前藩から没収し、幕府直轄とした上で、箱館奉行所を
函館山の麓(現在の元町公園付近)に設置。



さらには北方防備のため、五稜郭築造と7つの台場築造を計画
するのでした。箱館奉行所の任務は、千島・樺太を含む広大
な蝦夷地の開拓と統治、箱館開港に伴う対外関係の円滑化、
さらに箱館を中心とする海岸防備も急務で、箱館奉行の人数
は当初2人でしたが、後に3人体制に。
さらに1855(安政2)年には防備を一段と強化するため、蝦
夷地の大半を幕府の直轄地とし、松前・弘前(津軽)・
盛岡(南部)・久保田(秋田)・仙台の5藩が防備を分担し
ます。
弘前藩は千代ヶ岡(もしくは千代ヶ岱。現在の千代台町付
近)、盛岡藩は現在の元町配水場付近にそれぞれ陣屋
を設置しました。松前藩も戸切地(現在の北斗市野崎)に、
4つの突出した保塁と6門の砲座からなる西洋式城郭を設
け、郭内に陣屋を配置します。

箱館奉行所移転計画
開港後、外国人に五里四方の遊歩を認めたことで、箱館山か
ら見下ろされる等の安全上の見地から、少しでも箱館奉行
所を市街地から遠ざけ、また箱館湾からの各国軍艦の標的
にされない場所への移転を考え港から直線距離で3.5キロ離れ
た(当事の大砲は3キロ程度しか飛ばないので)、亀田の

中心にあたる現在地に決定、ここは亀田川の水を容易に取
りめるのも選定理由の一つでした。

五稜郭の設置
五稜郭の設計には、大洲藩(愛媛県)出身の蘭学者・武田斐
三郎(あやさぶろう)があたります。1855(安政2)年、和親
条約を締結していなかったフランスのコンスタンチーヌ号
など3艘の軍艦が、傷病を負った乗組員の治療を求めて
箱館港に緊急入港。箱館奉行・竹内保徳は幕府の許可を
得ることなく、人道上の問題として実行寺に70人を入院さ
せます。
その際、武田斐三郎はコンスタンチーヌ号副艦長から、星型
をした郭内に都市を取り込んだパリ郊外にある城塞都市の
絵図を示され、五稜郭の原案に取り入れたと言われています。
武田斐三郎は完成を見届けることなく江戸へ戻り、訪ねてき
た新島襄とは行き違いとなります。襄が澤辺琢磨(坂本龍馬
の従兄妹)と福士成豊の手助けでアメリカへ密航するのは、
この後の出来事です。



新奉行所の建築(幕府から新政府へ引き継がれる)
奉行所の建築は中川伝蔵(代人父源左衛門)が請け負い、大
工棟梁を務めたのは大岡助右衛門です。大岡は箱館戦争の終
戦後、侠客の柳川熊吉と協力し、官軍の命に逆らって、路上
に捨て置かれた榎本軍兵の死体を収容した人物として知ら
れています。
1861(文久元)年に建築は開始され、建材は秋田能代の松、
杉、栗を使用。能代で加工した後に箱館へ運び、組み

立てるという、現代でも通用するノックダウン方式でコスト
ダウンが図られました。
建物は、東西最大の長さ約97メートル、南北最大の長さ約59
メートル、建物面積約2658平方メートル(約800坪)と広大
です。総部屋数70室の3分の2は執務室が占め、100人以上
の役人が勤務し、残りは奉行とその家族の居住スペースでし
た。このほか、武器庫、食料庫、稽古場、馬厩、仮牢など20
数棟の付属施設もありました。また、裏門橋の後方に、同心
長屋50軒、役宅46軒の合計約100軒が建ち並んでいました。
この奉行所は明治維新までのわずか4年間しか使用されず、
1868(明治元)年、江戸幕府最後の箱館奉行・杉浦誠から
明治新政府の箱館裁判所総督(後の府知事)清水谷公
考に業務が引き継がれます。実際の事務引き継ぎは、
不幸にも京都で暗殺された坂本龍馬の家系を絶やさない
ために、明治政府の計らいで家督を相続した坂本直(当時
の名前は権判事・小野淳輔)が行いました。



1868(明治元)年10月26日、旧幕府の榎本軍に突如占領さ
れ、箱館府知事・清水谷公成は青森に逃亡、戊辰戦争最後の
戦い箱館戦争が五稜郭で火ぶたを切りました。
1869(明治2)年5月12日、官軍は箱館湾の軍艦甲鉄から
3.5キロ先の奉行所の太鼓櫓を標的に五稜郭を砲撃。榎本軍
の兵士10数人が死傷します。  一方、榎本軍が五稜郭に
持ち

込み、据え付けた大砲による攻撃は、箱館湾に一発も届かな
い旧式でした。外国防備のために設けられた五稜郭は、外国
との戦いでなく、国内戦でさえまったくの無力だった訳です。
戦いは五稜郭が攻撃された前日の5月11日、官軍総攻撃に
よって榎本軍は事実上の敗北を迎えました。

箱館戦争時に榎本軍によって放火され焼失しました

弁天岬砲台築造
五稜郭築造と同時に、箱館奉行は箱館港周辺7カ所に台場の
構築を幕府に願い出ます。しかし、予算の関係上、弁天岬台場
のみ工事が認められました。弁天岬台場は五稜郭とほぼ同時
期に完成します。面積は五稜郭の7分の1ですが、総工費はほ
ぼ同額の工事費10万両で、五稜郭にはないアーチ式入り口を
設け、箱館山の石と大阪から運んだ岡山の石を利用して、15
から16門の大砲が設置されました。工事に携わったのは、
五稜郭と同じ武田斐三郎、松川弁之助、備前喜三郎です。
箱館港内の船舶航行に支障をきたすとして、1896(明治29)
年に台場は解体されます。担当した北海道海道大学の広井
勇博士は、隅に鉄筋を入れるなどしていた斐三郎の技術力
を高く評価しました。

   ※ 箱館歴史散歩の会主宰(中尾仁彦氏)の
         文章をお借りしました。


◎外人さんが沢山来るとなると言葉は
 大丈夫?→外国語学習の機運が高まる

アメリカ船の入港を許可した時から箱館では、通訳の確保を
余儀なくされた。当時は通訳といっても、長崎の「阿蘭陀通
詞」や「唐通詞」に限られていたので、いきおいこの通詞た
ちが各地でその矢面にたつことになった。とはいえ、実際
には中国語とオランダ語のみでは、日本にやって来る各国
との交渉には限界があった。

箱館では渡来するアメリカ船の応接のため、安改元(1854)年
7月に奉行が、老中にあてて「阿蘭陀通詞」の配置を願い、
老中は長崎奉行に対して、箱館に2名の通詞を派遣する旨
命じたというほかに、箱館でもその養成をするようにという
注文があった。すなわち、以後箱館では長崎から派遣され
る通詞の他に、現地で養成された「通弁」を仕事とする
役人が出現することになるのである。

通訳者養成を命じられた通訳の名村は若年の役人の子弟た
ち、3、4名の稽古を始めた。結果としてこれは大きな成功を
納めることになった。外国語の上達には実際に外国人との
会話が必要であるという名村の意見で、稽古をしていた子
弟たちが、名村について外国人のところへ行くことが許可
された。当初その相手はライスであり、またその後、初代の
イギリス領事ホジソンとその通弁官コワンのところへも通っ
英語を学習しているいる。
更にはフランス人カションからフランス語も学んでいる。
文久元年には、ハリストス正教会の神父ニコライについて、
ロシア語を学習するものも出てきた。18名ほどの名が分か
っているが、その中から「魯語通弁」として採用されるもの
も出てきた。

安政6年2月に、改めて老中から達しがあり「外国との交流が
始まると、通訳はもっとも重要だから、(中央でのみならず)
各開港場でも通訳を養成するように」という指示が出た。
万延元年12月運上会所内に英語稽古所作られた。
ここで対象とした生徒は、主に同心や足軽、在住の子弟、
厄介(次男以下で分家や独立もせず、親や兄の家に厄介と
して寓居する者)であった。外国人領事、商人、聖職者など
が沢山居たので、やる気のある者にとっては外国語学習
のチャンスが沢山あった



◎近代化が急がれる港町、対応は?
         →箱館諸術調所が作られた

蘭学、測量・航海・造船・砲術・築城・化学等の近代学問を学
ぶ事が出来、更に航海実習も出来た。
諸術調所とは、箱館奉行所の研究教育施設で、蝦夷地(えぞ
ち)の開拓と警備に必要な人材育成を目指して、安政3年
(1856年)に設立された。
教授は5稜郭設計で有名な武田斐三郎で、蘭学はもとより、測
量・航海・造船・砲術・築城・化学などを教え、亀田丸でロシアま
で操縦航海するなど実践を重んじた教育を行った。
元治元年(1864年)、斐三郎が江戸開成所(現・東京大学の
前身)の教授に転出するまで、門人多くを教育。日本の植民
地化をねらう列強の脅威にさらされながらここで学んだ若者
達は、やがて近代の最前線で大きな仕事をなしていく。
日本の鉄道の父となった井上勝、東大工学部の前身を立ち
上げた山尾庸三、郵便制度の生みの親である前島密、日本
銀行初代総裁を務めた吉原重俊、海軍大臣となった今井
兼輔、そして開拓使のシンボルマーク五稜星を考案し、
開拓使海運事業の中心にいた蛯子末次郎などのことだ。

授業料は無料。しかも入学者は、幕臣の子弟に限らず、
意欲があれば足軽やその子弟にも及んだ。だからこそ、
全国から俊英が箱館をめざした
箱館に行けば外国語と近代学問を学ぶ事が出来ると、全国
の若者を惹きつけたのだ。同志社大学を創立することになる
新島襄が箱館に現れたのも、武田に教えを乞うためだった
(新島が来たときには武田は江戸に転出した直後で、願い
はかなわなかった)。
井上と山尾は、1863(文久3)年、長州藩がヨーロッパに秘
密に留学させた伊藤博文らの5人組、長州5傑(ファイブ)の
メンバーにもなっている。



◎天然の良港というけど?

18世紀半ばから松前藩の交易拠点となっていた「箱館」の港
が、安政5年「安政五カ国条約」の発効で、国内最初の国際貿
易港として世界に開かれました。

津軽海峡に面する函館港は、函館山の麓から西方へ湾曲した
海岸線に位置します。江戸後期に来航したアメリカのペリー
提督が、船上から見た絶景に驚嘆したほどの天然の良港。
湾に入ると外海の荒波や風から守られ、停泊箇所はそこ
ここに。
鎖国を解いて開港してからは異国文化が移入し、今日の西
部地区に見られる美しい町並みを形成するに至りました。
港内を行き交う船舶は帆船、連絡船、北洋船団の時代を経
て、イカ釣り漁船、貨物船、フェリーなどへとその姿を変え
ましたが、市内中心部に響き渡る汽笛の音は、港町ならで
はの風情を醸し出してくれています。



昭和3年から5カ年で実施した「第2期函館市営改良」では、北
洋漁港基地となる西浜町 (現西ふ頭) の岸壁を整備し、貯木
場や貯炭場となる海岸町を埋め立てました。
戦後、函館港の整備は、北海道開発局が中心となり進められ
ました。

昭和45年度には北ふ頭を完成させ、
46年度には中央ふ頭を拡張、
49年度には万代ふ頭が完成、
56年度には豊川ふ頭、海岸町船だまりを相次いで整備。
平成3年度には港内最大となる18.5ヘクタールの港町ふ頭に
    着工、
14年度にマイナス14メートル岸壁を供用しました。
平成12年度には島防波堤が完成し、現在の函館港を形づくり
ました。
30年には、JR函館駅近くの若松地区でマイナス8メートルの
クルーズ船新岸壁を暫定供用しました。かつて青函連絡船が
発着していた地区を再整備し、函館港の新たな魅力を創出し
ています。
函館港は現在道内随一のクルーズ船寄港地となりました。


◎カトリック元町教会 どこが凄いの?

 カトリック教会のローマ教皇庁は、鎖国期を通じて日本へ
の再宣教の方策を模索していたが、19世紀半ばには日本に開
国の兆しありと見て、フランスに本部を置くパリ外国宣教会
に日本への宣教師派遣を依頼した。
こうして1844年にテオドール・フォルカード 神父(司祭)
那覇に派遣され、2年滞在して日本への渡航許可を再三求
めたが、果たせず1846年に帰国した。
しかし、同年にフォルカードを初代教区長として日本使徒座
代理区が設立され、その後1855年からユジェンヌ・エマニュ
エル・メルメ・カションプリュダンス・セラファン=バルテ
ルミ・ジラールルイ・テオドル・フューレ3人の司祭
那覇に赴任して日本語を学んでいたが、
1858年に日仏修好通商条約が結ばれたことで、日本入国が可
能になった。

メルメ・カション(函館元町)
1859年函館に赴き、箱館奉行から与えられた称名寺一部に住
む。しかし、すぐに、その敷地内に礼拝室を伴った建物の建
設を始め、1859年末には小さな教会が出来た。この際の
間取り図はパリ外国宣教会本部のアーカイブスで発見され
ている。カションの直筆であった。この時期の函館はまだ
まだ尊王攘夷の雰囲気が強く、彼も侍に何度も襲われて
いる。彼は1863年春頃(文久3)に箱館を離れ、
この建物は1878年の大火で焼失する。

             

ピエール・ムニクー(函館元町)
1867年来函したピエール・ムニクー師は、現在の元町の地に
直ぐに司祭館を建設。聖堂も兼ねていて、元町教会ではこれ
を第2代教会としている。1868年4月11日彼の手により洗礼
式が行われた。受洗者は善兵衛?さんで、クリスチャンネー
ム:ジョゼフ・マリー・ゼンベー。実はこの洗礼は禁教令以
降で日本で初の受洗者であった。元町教会の洗礼台帳
は全て保存されており、そこには第一号として善兵衛さん
の名が記されている。この事実はプチジャン神父(隠れキ
リシタンを発見)経由でパリに知らされ、
そこから全世界に報じられた。
「かつて多くの伝道者 信仰告白者 殉教者を出した
 この国で3世紀 近くを経た後に初の洗礼 が執り行
 われた」
同じ年の12月24日には、第二号として遠藤仁右衛門さんが
受洗している。
勿論当時まだ禁教令は有効(明治6年廃止)で、秘密裏の




 

※では、参考までに、メルメ・カション師と共に来日した
  他の二人の宣教師の活躍にも目を向けてみよう
   
ジラール(横浜山手)
横浜に拠点を構えたジラールは横浜居留地80番地に1862年
「横浜天主堂」(イエズスの聖心教会)(その後移転し、現
在の山手教会)を建てた。このころ、ヨーロッパのカトリッ
ク教会の強い関心が日本に寄せられていた証左として、
1862年に「日本二十六聖人」の列聖が行われたことがあげ
られる。

フューレ(長崎大浦)
1864年になってフューレは長崎に土地を購入、後から加わ
ったベルナール・プティジャン 神父(1884年大浦で死去)
と共に1865年に教会堂を建てた。これが大浦天主堂
である。(大浦天主堂は現在国宝となっている)
一か月後、教会を訪れた婦人たちが自分たちは禁教下で
信仰を守り続けた潜伏信徒(隠れキリシタン)であることを
告白、神父は驚愕した。これを「長崎の信徒発見」という。
このニュースはすぐにパリ、ローマ、そして世界中のキリス
ト教国に伝えられ熱狂を以って歓迎された。

信仰を表明した信徒の多くはカトリック教会に復帰して
司祭の指導を受けるようになった。

※上記の隠れキリシタン達のその後

しかし、彼らは同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所
が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した
明治新政府も慶応4年3月15日(1868年4月7日)に五榜
の掲示という高札を掲示してキリスト教禁教を継続したた
め、信徒への拷問や流刑などが行われた。明治政府が刑
事罰を与えたキリスト教徒はカトリックに留まらず、東北で
の正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教
弾圧が全国的に行われた。(付録参照:最下段)
だが、明治政府の予想に反して、キリスト教禁止と信徒への
弾圧は諸外国の激しい抗議と反発を引き起こした
岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の解禁が
条約改正の条件であるとされ、1873年(明治6年)に
キリスト教禁止令は解かれた。

  

国内で他に例を見ない立派な祭壇類
1921年 函館大火で元町教会、司祭館、附属病院等が類焼。こ
れらの復旧のためベルリオーズ司教は72歳にしてアメリカへ
募金旅行。彼はそれ以前の聖堂の火事からの復旧の際にも
西欧に募金旅行したが、そんな彼をねぎらうためか、教皇
ベネディクト十五世より、祭壇、十字架の道行き、等
寄贈された
パリミッション日本代表の神父様も、教皇から特定の教会へ
のプレゼントというのは他に例が無いとのこと。
これらのリアルな木製彫刻による祭壇は大変に立派で、
日本では唯一で最高のものだ。初めて見た人は「地方の
函館になんでこんな立派な祭壇があるの」と驚く。祭壇上の
彫刻類は特に優れており、芸術品である。十字架のイエス
像、それを見上げるマリア像、大天使聖ミカエル・・・・
これについて建築史家の三宅理一(東京理科大学客員教授)
先生が関心を持ち、これを作った工房がまだ存在していると
知ると、イタリアのチロル地方まで出向いて調査。膨大に積
み上げられた未整理の書類の中から元町教会からの発注
書や出荷証明書等を発見。請求書から当時の金額も精査
更には、この工房は世界中に祭壇類を送り出しているが、
その大半はそれらの国において文化財として評価され
ている事が分かった。

&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

・つまり、元町教会は大火でたびたび焼けたが、
 起源としては日本最古で、横浜山手教会、 長崎大浦
 天主堂よりも古く、現存する建物も明治43年建立と古い。
・禁教令以降で日本で初の受洗者を出している。
・教皇ベネディクト十五世よりプレゼントされた文化財級の
 日本で唯一の祭壇がある。
 十字架の道行きも今ではあり得ない発想で作られていて 
 貴重だ。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

 


現場においては、立ち入り禁止区域もあっ
て、間近で見られないうえ薄暗いので鑑賞
に困難が伴う。
このHP上では特別に脚立やライトを用いて撮
った写真を載せているので、大変貴重だ。
ぜひ次から芸術品をご覧頂きたい。

    聖堂内部と祭壇の詳細写真

     十字架の道行きの詳細写真

     上記のカラー写真は全て小原雅夫撮影
     他サイトですので、戻る時はHOMEではなく
          ←をタップして下さい
       

                                                       

 HOME

  




箱館にはおしゃれな
    洋風小民家が多いのは何故?   
          
              

 江戸末期、日本を代表する貿易港としていち早く世界に門
戸を開いた函館。アメリカ、ロシア、イギリスなどの領事館
が相次いで開設され、外国人が住み始めます。
横浜や長崎と同様、最初は外国人居留地を設置しますが、
函館は土地が狭かったため、実際は市街地に雑居状態。
現在も元町で隣り合わせに建つ教会と寺院が、それを象
徴しています。
外国人と一緒に住むことになった函館住民は、彼らと直接触
れ合う中から、西洋の最先端の技術を多く吸収することが
できました。函館の大工たちは、外国人の指導のもとで、
まったく経験のない教会や領事館などの洋風建築に取り組
みます。その後、宣教師や外国人商人の洋風住宅建築も依
頼され、並々ならぬ苦労を重ねながら技術を習得しました。

ところが、開港したとはいえ函館の輸出入額はわずかなもの
で、外国商人はより大きなマーケットを求めて横浜や神戸を
目指し、函館を去り始めます。せっかく苦労して洋風建築技
術を習得した函館の大工たちには、洋館を建てる機会が減
少する一大事。そこで、当時財力があった海産商を中心
に店舗・住宅の建築に洋風の様式を取り入れることを
強力に勧誘します
当時の函館商人は、諸外国と不利な商取引を強いられてい
ました。長年の悲願である対等の取引を行うためにも、
馴染んだ和風の生活様式を守りつつ、洋風を意識した
店舗・住宅で対等な立場を強烈に誇示する必要があると
考えられたのでしょう。

明治11年の函館大火後の街区改正で、お役所はロシア・ウラ
ジオストックの街並みを模倣するように指導したそうです。
坂の途中に建つ建物は、下から見ると2階部分のみが重な
るように見えるので、そこが目立つように洋風で鮮やかな
ペンキ塗りにし、外国に負けない「近代化都市」であること
を強く印象づけようとしたのです。
日本の中でも外国との結びつきが特に強かった函館は、
経済的にも精神的にも、外国に追いつけ追い越せが急務
でありました。その一端が窺い知れます。
その後、明治20年代後半から昭和初めまで、商店に限らず
庶民の町家にも、洋風を取り入れた「上下和洋折衷住宅
が広まっていきます。
特に明治40年、当時の全戸数の約半分の1万2千戸もが
焼失する大火が起きますが、大火後の復興は目覚しく、
和洋折衷住宅が函館の街並みを形成していきました。

 

和洋折衷とは、言うまでもなく、日本風と西洋風の様式を一
緒に取り入れること。その中で函館の和洋折衷建物の特
徴は、1階は下見板張り(ささら子下見板張も)の和風で格
子戸を持ち、2階は下見板張りにアイボリー、ピンクや緑な
どのペンキ塗装、縦長の上げ下げ窓か両開き窓を持つ、
「上下和洋折衷住宅」であることです。屋根の形態は日本
古来のもので、主として和風瓦を使用、軒下に持送りと
軒蛇腹を持ちます。さらに1階と2階との境には胴蛇腹が
あり、4隅の柱は柱型が出ているものが多く見られます。
建築主や大工たちは、持送りや軒・胴蛇腹、また窓の額縁
の装飾で腕を競い合いました。ただ、当時の大工の洋風
建築技術は決して高いものでなく、外観をいかに洋風に見
せるかを主眼におき、建築構造的にはすべてが和風です。
そのため、2階の洋風も実は外観のみで、内部は和風の畳
敷き。
ベイエリアの金森倉庫東側一帯は、明治から大正時代の
興隆期に、函館繁栄の象徴である海産商の店舗が軒を連
ねていた地域でした。当時の面影を多く残す「上下和洋折
衷」の店舗・住宅が数軒残っており、雰囲気のある街並み
を歩くと、まるでタイムスリップしたような感覚に。これらは
レストランや雑貨店など、多種な店舗として利用されてい
ます。

函館を代表するハリストス正教会や旧函館区公会堂の設
計家、そして和洋折衷の大工たちにしても、一度も海外渡
航の経験がなく、もちろん洋風建築の現物を見たこともあり
ませんでした。それでも、開港以来、洋風建築そして
「和洋折衷様式」の町家等が数多く建てられたのが函館。
最先端の西洋文化を柔軟に受け入れた先人たち。その
気質を色濃く残した街並みを、じっくり味わってみてくださ
い。
※文/中尾仁彦(箱館歴史散歩の会主宰)
  

  HOME


ご苦労様でした! 宿題はここまでです。



付録 読んでも読まなくとも自由です 

(時間がなく、段落不揃いで申し訳ない。)


「隠れキリシタン発見のその後」

幕末の元治2年(1865年)、長崎の外国人居留地にカトリック教
会(大浦天主堂)が建てられると、潜伏キリシタンの中からカミン
グアウトする者が現れるようになった。200年以上に及ぶ長い禁
教政策の下で、密かに信仰を守り続けた日本人教徒の存在
は、欧米のキリスト教徒に大きな感動を与えた。このことは欧米
人が日本人に親しみを感じ、日本の出来事に関心を持つきっか
けにもなった。


 一方日本国内では、カミングアウトしたキリシタンを野放しにし
たら法令の権威が地に落ちると、慶応3年(1867年)、幕府は長
崎のキリシタン一斉逮捕を強行。約70名を捕らえ、拷問を加えて
棄教を促した。

 これに対して欧米各国は一斉に反発。長崎奉行はもちろん、
徳川慶喜にも抗議を行った。しかし、3ヶ月もすると幕府が崩壊
し、キリシタン達は生きて家に戻ることができた。


 外国人神父は、これでやっとキリスト教が解禁されると明るい
気持ちになったという。

しかし、自宅に戻ったキリシタン達には、さらに苛酷な運命が待
っていた。神道を国教とする中央集権国家の建設を目指す新政
府は、耶蘇教(キリスト教)を国家神道の権威に害をなす異端と
位置づけ、幕府の禁教政策が継承されることになったのであ
る。しかもパワーアップした形で。


 慶応4年(1868年)九州鎮撫総督に就任した公卿の沢宣嘉
は、長崎裁判所(旧長崎奉行所)長も兼任し、最初の大きな仕
事として長崎のキリスト教対策に取組むことにした。

                                                                 
沢宣嘉

 沢はまず指導的立場にいる者や家長など、約200名を長崎裁
判所に出頭させ、改宗するよう諭したというが、そんなことで簡
単に改宗するなどあり得ないことであった。そこでより厳しい対
応をすべく、中央政府に耶蘇教徒の現状と厳しい処置を要請す
る書状を送った。


 「凶徒の勢い日々盛ん・島原の乱が再来し九州に争乱が生じ
ることは必然」などと煽る沢宣嘉の要請書は、新政府内の耶蘇
教に対する不安と苛立を増幅させ、木戸孝允にして「慨歎に堪
えざるなり」といわしめた。

 沢宣嘉の提案は、3,000人ばかりいる耶蘇教信者を全員殺す
のも残酷なので、まずは指導者を処刑し、そのほかの者は長崎
から追放し、移住先では地元民から隔離して労働させるのがよ
いというものであった。

 また外国の抗議については、弱腰の幕府が外国人の抗議に
よって、捕らえた者を帰村させたりするから、奴らは自分達の後
には外国がついていると錯覚して増長しているのだ。そもそも宣
教師が外国人居留地の外にいる日本人を助けるのは条約違反
であり、また我々が罰するのは日本の法律を犯した日本人であ
るのだから、それは内政問題であって心配ない、としている。


 こうした提案に対し、外交部からキリスト教徒が多い欧米に配
慮すべきであるという意見が出されたので、死刑は行わず全員
流刑にして改宗するまで戻さないという方向で意見がまとまっ
た。新政府はこれを穏便で人道的な対応と考えていたようだ。


 流配先は加賀藩や石見藩など19藩で(廃藩置県前なので地
方行政単位はまだ藩のままであった)、送られた信徒の総数は
約3,400名にのぼる(当時のカトリック日本代牧プチジャン司教
調べ。日本側の文書では約4,000名)。


 形の上では期限付きの追放刑であるが、信仰を棄てさせるこ
とが目的なので、執拗に拷問が行われ、長い監禁生活を通して
660名が命を落としている。

 また、長崎とは別に、隠れキリシタンが多くいた九州の各藩で
も逮捕監禁が行われており、狭くて寒くて不衛生な牢中で、子供
や老人、病弱な者などを中心に死亡者が多数でていた。

 潜伏キリシタンが多かった五島藩の報告書によると「肌寒に
耐えかね、あるいは呵責受け候て、死去いたし候者多分にこれ
あり候」といった状況で、大人には江戸時代から続く石責めや
水責めが行われ、幼児や乳児は放置されたため飢えと渇きと
寒さで亡くなった。


欧米各国の反応と日本の対応

 これらの事件の詳細は、外国人宣教師やジャーナリスト、それ
らの協力者などによって詳細に調査され、本国に伝えられてい
た。また、外国人居留地では新聞が発行されており、歯に衣着
せぬ筆致で新政府を攻撃し、
在日外国人はもちろん本国でも、
怒りの共有化が出来上がってしまった。岩倉具視など渡航する
前から悪党の親玉として外国人に知られていたらしい

 いずれにしても欧米各国から見れば、見過ごすことができない
人道に反する残虐行為である。キリスト教やそれを信じる人や
国への侮辱や攻撃と捉える人も多かった。各国の領事(アメリ
カ、フランス、ポルトガル、デンマーク、ベルギー、スイス、オラン
ダ、プロシャ、後に北ドイツ連邦、イギリス)は連名で事実確認と
キリスト教徒の解放を求める文書を沢宣嘉に送った。


 長崎裁判所は当然こうした抗議があることは予想しており、前
に述べた沢の内向きで独善的な論理で対応した(原文は漢語
候文)。


「異教信仰の日本人の一件について----耶蘇教を信仰する日
本小民を蒸気船で他所に送ったことは間違いありません。その
理由は彼らが国律を犯したからであります。(中略)政府は罪な
き国民を仁の道に背く所に送るつもりはいささかもありません。
親しく心のこもったお申し入れはかたじけなく存じますが、ご説
明させていただきました通り、(疑念を)氷解していただくべく、
謹んでお答えいたします。(署名は沢宣嘉の部下3名の連名)」


 欧米の外交官達は「なんじゃこりゃ。全く分かってないではな
いか」と憤慨したことであろう。その後何度か抗議や質問の文
書が送られたが返答は似たようなものであった。そこで欧米各
国の公使が協議を行い、英仏米独の公使が日本政府幹部と面
会して直接話をすることになった。


 日本側の出席者は三条実美、岩倉具視、福島種臣、沢宣嘉、
寺島宗則ら日本政府を代表するお歴々である。興味深いところ
ではドイツ公使の通訳としてシーボルトが出席していた。

 以下はその内容のごく一部だが、外交官寺島宗則の言葉に
日本政府の意識がよく現れていると思う。下のドイツ公使はマク
シミリアン・フォン・ブラント。フランス公使はマキシム・ウートレー
であった(議事録は漢語候文)。


岩倉具視


岩 倉「もとより我が国の教えを奉じ、政府の命令を守り、少しも
悪い所がない者を移住させることはない」

ブラント「もしヨーロッパに日本の宗教を信じる者がおり、それを
我々が罰したなら、貴国政府はさだめて不快に思われるであろ
う。だからヨーロッパでは、他の宗教を軽んじ侮るようなことはし
ない」

寺 島「仰せはよくわかるが、そもそも我が国は天皇陛下の御
祖宗である天照大神を国民一般が拝んでおり、これに背く者は
いない。耶蘇信仰の族はこれを侮辱し政府の命令を受け入れな
い。もしこれを放置すれば政府は威厳ある命令を出せなくなる」

ウートレー「日本の宗教は神道だけでなく仏教もあろう」
寺 島「仏教徒でも神を拝まぬ者はない。しかるに耶蘇信仰の
者は大神を拝まぬばかりかこれを卑しめている。日本人は家に
神だけでなく仏も祀るのが普通だ」

ウートレー「ヨーロッパに住む者が耶蘇教を信仰しなくても、
我々はそれを咎めることはない」

寺 島「ヨーロッパ各国は規律が確立されているので、信教を自
由にしても差し障りはない。しかし我が国は未だそのレベルにな
く、他の宗教がみだりに入ると政令に差し障る。旧幕府の大名
もみな朝廷を頼りとしていた。つまるところ天皇陛下は大昔から
我が国の君主であり、大神は陛下の御祖宗であるから、上下の
別なく大神を拝めば政令に都合がよろしく、国民は政府のあら
ゆる指示をよく守る。これがなくては政府の立場が定まらない。
もちろんヨーロッパ人に対し、日本に住んでいるのだから大神を
拝めというつもりもない」


 こうして議論は平行線のまま、今後も引き続き協議するという
ことを約束して終了となった。

 宗教に関わる闘争で、古くから多くの血を流してきたヨーロッ
パは、「国家は国民の信教の自由を尊重しなければならない」と
いう基本的な約束事を(たとえ立て前であっても)共有するように
なった。そんな彼らからすれば日本の宗教政策は、鎖国するな
らともかく、欧米先進国サロンにデビューするつもりなら、早急に
改めてもらわないと困る独善的な考えと感じられたことであろ
う。


 尊王攘夷の武闘派公家であった沢宣嘉とはちがい、国際経験
が豊富な寺島宗則は、自分の意見が詭弁に近い強硬なものだ
ということをある程度自覚していたかもしれない。しかし幕府相
手の内戦を戦うのがやっとの軍事力と、錦の御旗ぐらいしか権
威を示す方法がなかった当時の新政府は、天皇と民間信仰を
結びつけて権威固めをするために、当面は神道一本でやらせて
くれと頼むしかないと判断したのだろう。

 その後も欧米各国の抗議は続き、日本は相変わらず「我が国
の特別な事情」を主張するだけであった。しかし岩倉具視らが
欧米各国を訪問した際、日本の主張が欧米各国には全く通用
しないことを思い知らされる。

 
予想を超えた米国政府の反応

 明治4年(1871年)の晩秋、岩倉具視を団長とする48名の遣外
使節団と、同行する留学生や外国視察の公家や大名、使用人
など合わせて100人ほどの日本人が太平洋を渡った。

 一行は1ヶ月足らずの航海でサンフランシスコに着き、各地で
予想を上回る歓迎を受けながら、約2ヶ月かけてアメリカ大陸を
横断し、ワシントンに到達した。使節団はユリシーズ・グラント大
統領(1822?1885年 元南北戦争の将軍。日本の耶蘇教弾圧を
批判していた)を公式訪問し、天皇の国書を手渡している。


 また国務省では来たるべき不平等条約改正の地ならしとし
て、ハミルトン・フィッシュ国務長官らと11回会談している。一行
はアメリカが条約改正に応じる意志があることを知って喜ぶとと
もに、内政問題だと思っていた耶蘇教徒の弾圧が、外交上大き
なマイナスポイントになることも思い知らされた。

 以下に条約改正の条件として示された宗教条項に関するやり
とりの一部を示す(日本側の漢語候文で書かれた議事録を現代
語に要約にした)。


ハミルトン・フィッシュ

フィッシュ「我々の言わんとすることは、我が国民が自由に意見
を述べ、新聞を発行し、自由に信仰することが、貴国にも及ぶこ
とを望んでいるということだ。法律に反さない以上、これらは人
生の権利である。人民の意志に政府が関与することがあって
は、自由という公権を害することになる」

岩 倉「貴国の人も、我が国の人も、差別無く、あまねくこれを施
行すべきという趣旨は承知した。ただその内容を条約に盛り込
む必要はないと思われる」

フィッシュ「将来もし政府に登用された者が、言論の自由や信
教の自由に反対しても、条約に掲載しておけば、それを守ること
ができる」

岩 倉「我が国民は仏教を信じているが、各自の公権を大切に
思っている。貴国の耶蘇教を信じる人も同じであろう。その件を
条約に盛り込むことは内政干渉の発端になるのではないか」

フィッシュ「よくお考えいただきたい、これは一つの宗教につい
て論じているのではない。現行の条約にも宗教に関する条項が
あるのはご承知か」

岩 倉「承知している。しかしそれは日本人とアメリカ人の交際
に関わることで、日本人がアメリカ人を侮辱しないようにするも
のだ。日本人同士の交際をまで規定するものではない。日本人
同士の問題は我が国政府に属する事務だ」

フィッシュ「こちらで求めていることを、みなさんでよくお考えいた
だきたい」

岩 倉「ロシアにおいても居留地の外国人には信仰の自由を認
め、自国民にはそれを認めていないと聞く」

フィッシュ「人々に自由を与えることは、国を進歩させるために
重要であることは、あなたもおわかりのはずだ」


 戦後民主主義の中で育った者なら、フィッシュ国務長官
(1808?1893年)の提案の方に親しみを感じるはずだ。アメリカ
は19世紀末にも太平洋戦争後と同じようなことを日本に要求し
ていたのである。一方、天皇と神道の権威で日本を統治するた
め、日本人に信教の自由を与えたくない岩倉具視は頑に感じ
る。


 この次の会談では、岩倉具視に代わって木戸孝允が出席し、
日本から同行していたチャーレス・デロング(1832?1876年)在
日公使も発言する。アメリカ側は長崎周辺のキリスト教徒弾圧
に直接言及し、会談は厳しいものになった。


木戸孝允


フィッシュ「使節団が日本を出発したあと、長崎で苛酷な弾圧が
あったと聞いている」

木 戸「そのことに外国人は無関係である。それは宗教上の問
題であって、外交と貿易の利益を増進することとは関係がなく、
宗教に関する条約を結ぶことは不必要と思う」

フィッシュ「宗教弾圧を防ぐことなく自由な国交はできない。外国
の宗教を侮辱するのは外国人を侮辱することになる」

木 戸「それはこの場で議論することではない。一つの弾圧が
全ての宗門に及ぶのなら条約に関わるが、現状はそうではな
い」

フィッシュ「一つの弾圧のことだけを申し上げているのではなく、
全てに寛容であることを希望している」

木 戸「人が心に思う権利は天から授かり物である。もし政府が
その権利の保護を怠るのであれば、それも条約に書くべきであ
ろう。しかしながら我が政府はこれを保護する意志があるので、
条約に書く必要はない」

フィッシュ「日本政府は苛酷な弾圧をしていないということか」
木 戸「そのことは米英仏、その他諸国の公使と会議で話し合
った通りだ。同席されたデロング氏も日本政府の考えを承知し
ておられると思う」

フィッシュ「確証を得たい」
木 戸「それは条約以外の方法で証明する」
フィッシュ「耶蘇教徒4,000人を日本各地に離散させたことは最
近のことである」

木 戸「そのことについては理由があるし、その頃と今では状
況が違う」

フィッシュ「確かに物事は変化しやすい。だから日本政府が良
い法を作り裁判所を設置するまでは、条約で人権を保護すべき
と考える」

木 戸「外国人は保護するが、内政に外国人が立ち入って口を
出すことは好まない。幕藩時代は国民が外国に保護を求めた
かも知れないが、今は日本政府が開明の政治をおこなってい
る」

デロング「日本では様々な事件が起きている。近年4,000人の
耶蘇教徒を何処かに放逐し、山林に寝かせ、鉱山で働かせ、奴
隷にしてしまった。各国公使にはこのようなことが起きないよう
にすると約束されたが、その後も続いている。九州では寒気に
倒れたり、餓死させられたり、箱に入れ鎖をかけられ道端にさら
されたという。フランスの司祭によると、つい先日新たに70人を
追放したとも聞く」

木 戸「我が国は善政に向け努力中で、急激に進歩している。
そのときになぜこのような話を持ち出されるのか。貿易や外交と
は関係がないではないか」

フィッシュ「日本政府は外国の軍隊を上陸させないことを希望し
た。だから軍隊を派遣せずにきた。しかし日本の辺境では、政
府の許可なく人民を弾圧する役人がいる。当方はこれを防ぐこと
を望んでいる」

デロング「政府は岩倉公の弾圧はしないという約束を破られた
のか」

木 戸「政府の方針は厳刑をやめて、耶蘇教徒に残虐なことは
しないということである」

デロング「耶蘇教徒の家族を離散させたことは残虐行為ではな
いのか」

木 戸「日本政府が寛大な処置をすることを保証すれば今後の
憂いはなくなるはずだ」

フィッシュ「なぜ早くそのような告知ができないのか。使節が出
国した後も76人の耶蘇教徒が苛酷な弾圧を受けている。だから
条約に書いて、政府が人民に条約に従うよう布告すればよい。
それが貴国の開化を大いに進めるだろう」


 木戸孝允がちょっと可哀想になるほどのやりとりである。使節
団離日後に起きた弾圧の人数まで突きつけられて驚いたであ
ろう。しかし、欧米先進国の大臣クラスとの初会談としてはよく
頑張ったし、学ぶことが多かったと思われる。


ヨーロッパの反応

 このあと使節団は欧州各国を回るのだが、岩倉も木戸も、フィ
シュとの交渉で多くのことを学んだためか、信教の自由問題で
は柔軟な対応を見せている。ただし、各国の大衆も日本の耶蘇
教弾圧のことをよく知っており、行く先々で大歓迎というわけに
はいかなかったようだ。


 以下はイギリスの外務大臣アール・グランヴィル(1815?1891)
と岩倉具視とのやりとり(日本側の漢語候文で書かれた議事録
を現代語に要約にした。レミュザとの対談も同じ)。


グランヴィル

グランヴィル「今、英国と日本の政策で最も異なっているのが、
耶蘇教の禁教である。日本が相変わらず耶蘇教を厳禁にしてい
るので、私に書面を送り、貴君と交渉するなという者が現れるま
でになっている」

岩 倉「そのことについて申し上げたい。300年前天主教が我
が国に伝わったが、政治の妨げになるとして禁止令がだされ、
それが久しく続いた。そのため人々は天主教がどのようなもの
であるのかも知らずに忌み嫌うようになった。今解禁の令を出せ
ば、快く思わないものいる。そこで開港の頃から踏み絵をとりや
め、信じる者を厳罰に処すことをやめるようにした。最近は政務
に支障のないものは咎めず、いずれは解禁の時がくると考えて
いる」

グランヴィル「それはけっこうなことである」

 また、長崎に宣教師を送り出しているフランスでは、外務大臣
シャルル・フランソワ・レミュザ(1797?1875年)と会談した。


レミュザ「宗教のことは急いで何とかしなければならないだろ
う。欧米の人心を日本に向けさせるには、古い禁令を廃して寛
大に対処し、信教の自由を認めるのが最良の方策である。我々
と同じ宗教の人々が他人に煩わせられることなく、残酷な目に
あわないことが大切だ。この問題についてフランスは注意をはら
い、非常に憂慮している。日本でも文明国が採用している法を
実施してもらえれば、我が政府は満足である」

岩 倉「宗教の問題は非常に急がなければならない事案とかね
がね考えている。政府でも信教の自由を考えるようになった。た
だ国内の実情はまだ大きく変われる状態ではないこともご理解
いただきたい。今ご指摘いただいたことは政府に伝え、欧州各
国と同様になれるよう努力する。時がくれば耶蘇教禁制の法を
廃止するのは必定。ただそれがいつなのか、今時限を決めるこ
とはできない」


 さらに岩倉はパリ外国宣教会が派遣している神父が、現時点
では違法となっているキリスト教徒を助けているが、それは不正
行為であり、そのためにキリスト教徒の間で政府の威厳が損な
われている、それをなんとかしてほしいと注文をつけた。

 それに対しレミュザは、法を犯すものは罰せられるのが道理で
あり、外国人の保護を受けるのはおかしいと正論を述べた上で
「ただし役人が(耶蘇教徒に)残酷な行為をするのを見るは忍び
なく、助けたいとは思うのは人情として普通のことであり、これ
は宗教問題とは別の話である」と反論した。当事者の立場や宗
教の種類を超えた、人道上の問題であるというのだ。

 レミュザは伯爵家の出身で父親も政治家。また哲学者としても
知られていた。外務大臣に就任したのは70代の最晩年である
が、頭脳は冴えていたようだ。


 この後いくつかの国を回るが、宗教問題については大きな議
論は起きていない。ただ、大衆も日本のキリスト教弾圧を詳しく
知っており、使節団はキリスト教徒の解放を叫ぶデモにはたび
たび遭遇し、酷い時は馬車が包囲されたという。


帰国後のこと

 岩倉使節団は、人権や宗教が近代国家でどんな意味をもって
いるのかをまのあたりにした最初の日本人といえるかもしれな
い。沢宣嘉に始まった新政府のあからさまな耶蘇教差別も、ア
メリカの国務長官や外交官という、ある意味での「教師」を得た
ことで客観視できるようになり、短期間のうちにより適切な対応
に方向転換したようだ。このあたりの明晰さと適応力の高さは、
さすが明治維新の立役者達といえよう。

 宗教問題で不平等条約の改正が遅れたと考える人もあるが、
使節団は最初から条約改正交渉をするつもりではなかったし、
法や官僚組織の整備など、国の体制が全く整っていない状態で
米国との単独条約などに手を出したら、日本はもっと苦しい立
場に追い込まれていただろう。


 そして明治6年、明治政府は貿易相手であり当面の師でもあ
る欧米各国に配慮する形で、ついにキリスト教の禁教を解い
た。と世間ではそういうことになっている。しかし、実際はキリス
ト教を禁止する高札を撤去しただけで、その理由も「日本人に浸
透した法令であるから、高札を掲げる必要がなくなった」というよ
うな、とぼけたものであった。しかし、少なくとも、ミサを公然と開
いても逮捕されることはなくなった。

 もし、欧米各国の潜伏キリシタンの運命に対する関心が希薄
であったり、宗教条項を外交カードとしてゆさぶりをかけられな
かったら、解禁はもう少し後のことになっていただろう。


※「蝉の日和見」より抜き書きです
明治初頭の宗教と外交の事情を知るには、高木一雄の名著「明治カトリ
ック史」が大いに参考になる。この本には著者の考察や解説が少ない。そ
の代わり当時の書簡や外交文書が原文のまま大量に引用されていて「著者
が一次資料を整理して並べてやるから、読者はそこから何かを読み取れ」と
いうような硬派な構成だ。