日本最高の教会彫刻群
 百年の時を経てその価値を再発見!



 解 説

元町教会のこれ等の彫刻群は、北イタリアのヴァル・ガルディナ地方サン・ウルリコにあるフェルディナンド・シュトフレッサー工房で作られました。

教皇ベネディクト15世からプレゼントされたという事以外には、長い間詳細は分かっていませんでしたが、現在元町教会を詳細に調査して下さっている三宅理一先生が、現地を訪れ工房を探し出しました。
工房はまだ存続していて、三宅先生による調査を快く了解して下さいました。
外国語の古文書も読める先生は、未整理の山と積まれた書類の中からドイツ語で書かれたベルリオーズ司教あての書類を発見しました。
この記録から次のような事が判明しました。

・祭壇の発注者は教皇ではなくベルリオーズ司教である。

・見積もりがフランス・フランである事から、ヴァチカンからの復興支援の資金が一度 パリ外国宣教会に入り、その上で決済されたと考えられる。

・支払い条件は、1/3を発注時に、残りは品物の受領から2か月以内に払う。

・像は全て彫刻であるが、脇祭壇に既製品あり、となっているのはイエスとマリアの像と考えられる。この二つ以外は全て特注品という事。 

・1922.7.14に手付金が払われているので、この日が受注日であろう。
 (1921.4に火災、函館では1921.11に天主堂の起工式だが、この起工式の時点では既に設計図が完成していて、それに合うよう祭壇や彫刻類のサイズが決まり、それを基に代金が算定されたのだろう。)

・1923.8.8に神具一式が完成し、日本に向けて発送されたと、請求書から判断される。
  (1923.9.1関東大震災)

・1923.12.9にほぼ完成の天主堂のささやかな祝別式。この日神具一式が函館に到着

・1924.6.8 公式の献堂式

・約100年前の事なので書類には文字で祭壇類の特徴が記されているが、全て元町の祭壇類 と一致する。

  
  
 1910..07 オズーフ司教案の天主堂完成
 1921.04 大火で全焼
 1921.11 天主堂起工式
 1922.07 祭壇・聖具一式発注
 1923.08     〃    完成 発送
 1923.12     〃   函館到着
 1924.06 公式の献堂式


 私の発見

私事となるが、近年、この聖堂の150周年記念誌制作や、ホームページ制作のために元町教会聖堂の彫刻を1点1点写真に撮る機会に恵まれた。作業をしながら、大変不思議な感じを持った。それは、幼稚園児だった頃からずっと見慣れた彫刻群のはずなのに、今改めて見ると、不思議なオーラを放っているのだ。
仕事柄ヨーロッパの中小都市を訪れる機会が少なからずあるが、そんな時は必ず地元の教会に立ち寄り短い祈りを捧げ、祭壇と十字架の道行きを見て歩く。そんな経験を積んできたせいだろうか。
こう言っては悪いが、ヨーロッパの中小都市の教会では職人さんが大量生産したような類型化した彫刻が結構あり、それらは見る者をはっとさせたり感動を与える事は無い。
しかし、この聖堂ではひと味もふた味も違うのだ。彫刻群は勿論、聖堂のあちこちを飾っている装飾に至るまで、全く手抜きが無いのだ。そして全てとは言わぬがそこここに我々をとらえて離さない洗練された芸術の輝きが散りばめられているのだ。自分は今まで何を見ていたのだろう!

最初に驚いたのが、正面祭壇上にある十字架上のイエスとその下に佇むマリア像。
高い脚立を立てて、複数のライトを照らして写しているので、遠く離れた下からの視線とは異なる。
ラテン諸国の教会で見られるどぎつい血の赤はあまり見られない。一見、イエスの顔もマリアの顔も穏やかそうだ。

しかし下の1枚目のイエスの写真、顔をアップしてじっくりと見て欲しい。すっかり落ち窪んだ眼窩と痩せた頬、でも何故か少しの癒された表情。「父よ、出来ればこの盃を私から取り除いて下さい、しかし…」と言って呻吟したのは昨夜。でもそのずっと以前からイエスは苦しみ続け、今日の引き回しの末の十字架刑…しかしもうすべては終わったのだ。やっと終わったのだ。見る者をしてそんな事を想像させる深さ静けさがそこにはある。

懸命にイエスを見上げるマリア像を見て欲しい。彼女は大声で泣いたり涙をぬぐったりしていない、少しうっとりしているかのようにも見える。彼女はもうさんざん泣いたのだ、涙が枯れるくらい。愛する我が子の苦痛を察し自らの痛みとしてずっと引き回しの後について回った。しかし、今ではもう全てが終わったのだ。
苦しみから解放された我が子を見て、悲しみと共に少しの安堵感が生じたのだろうか。
マリアの下瞼を拡大して見て欲しい。泣きはらした涙で下瞼が赤く腫れあがっているではないか。

これを見て私が思ったのはこれを制作した職人さんの事だ。殆ど誰からも見られないこのような所にも技と意を尽くしているのだ。
1923年にイタリアの工房から積み出されて函館に着き、聖堂の高い場所に据え付けられて以来誰にも気付かれなかったのだ。100年もの間誰にも認めてもらえず、薄暗い所でじっと耐えていたのだ。
考えてみると、この聖堂の全てが誕生以来誰からも「鑑賞」された事は無いのだ。
昔の聖堂はもっとステンドグラスからの光があったとは言え、暗かった。今は明るいけど、どの像も高い所にあり、鑑賞には不向きだ。
私は脚立と、ライト類の助けを借りて、この聖堂の美を発見した。一般の方には無理な話だ。

そこで思いついたのが、これらをネット上に載せスマホで拡大しつつ見ていただく事だ。
これによって、これらの彫刻群が100年の眠りから覚め、それらに相応しいまっとうな評価を受ける事が出来るだろう。今はまだ無名の存在であるが、これらは将来きっと芸術品として高く評価されると信じている。
ここ数年来この思いを強くしていましたが、三宅先生以下のレポートで私の思いは確信に変わりました。

「この工房は1875年に設立されたが、木彫技術に優れ、ヴァチカンを始め、ヨーロッパ各国で高く評価され、今日文化財扱いになっているものが多い」
(元町教会の祭壇・聖具一式の取引では当時の価格で約28万円かかったが、同じ時期の市立札幌病院の総工事費が32万円であった事と比較してみると、いかに高級な物であったかがわかる。)

以上がこのサイトを作った動機です。
何故この函館にこのような優れた作品が来たのでしょう。下記が三宅先生と私の推測です。(優れた作品の為には技術の他に芸術家の動機・熱意が必要ですが…)

・教皇庁あるいはパリ外国宣教会という大きな組織から、「救援」扱いで特注されたので、職人さんは燃えた。
・何度も大火にあった教会に同情して。
・隠れキリシタンの発見は世界中の教会で奇跡として喜ばれたし、ジャポニスムは大変な人気だった。つまり日本人に対する尊敬・敬愛の気持ちがあったから。
・イタリアの職人さんは技能も高く、プロ意識が強い。日本人同様凝って一流の仕事をしたがる。
     どれが正解か分かりませんが、どれも当たっている気がします。

                                      小原雅夫





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