「バブルが教えてくれた、教会への市民の思い」
                                     画家 小原雅夫る会」「末広町のマンションを考える会」「函館の歴史的風土を守る会」「函館民宿観光協会」「楽部」はじめに
 1990年当時、狂ったようなバブル経済はあらゆるものを飲み込み、一般庶民でさえこの機会に金儲けをしようとし、人も文化も変わってしまった。それを苦々しく思っていた人は沢山居たと思うが、新聞に大きく報道されるような「運動」としてはまだ無かった。 ご存知のようにバブル経済は土地、建物などの資産価格が、投機目的で異常に上がり続け、その結果、それらの資産額が膨らみ、実態を離れ大きな評価益が発生しているかのように見える状況のことだが、リゾートマンションについては、土地の取引だけに留まらず、更にはそのマンション自体も投機の対象になったので、バブルの大きな要因であった。
投機の対象という事は、購入されても誰も住まない、つまり従来から住んでいた人々を追い出して、夜真っ暗なマンションが幽霊のように立ち並ぶ情況を産み、夜景をも破壊していた。
こんなめちゃくちゃなバブル経済には識者をはじめ国民の多くが疑問、いや怒りすら感じ始めていたと思う。
事実、私達が立ち上がると、地方や全国の新聞、テレビ局などが連日取材に訪れた。 結構な紙面を割いて全国にも報道された。これ等のマスコミのお陰もあり、函館は景観破壊からある程度は逃れる事が出来たと思う。これはその顛末だ。

                                                        
 運動の始まり

 私は小学校卒業迄函館で過ごし、その後進学や転勤であちこち移動した後、30年ぶりに函館に戻ってきた。その函館で最もショックを受けたのが、函館山周辺に乱立する高層マンション群だった。 小学生であった頃の私の遊び場は、函館の景色を一望できる水源地(水元)で私はそれがとても好きだった。しかし、そこからの景色は高層マンションでずたずたになっていた。「景観を売りにしている函館が、それをぶち壊す高層マンションをストップさせないのはどういうことなのだ!!」これは強い怒りとなって私を突き動かした。見る度に憂鬱になったものだ。(図T、図U)

図T


図U

 私は市の都市建設部や市会議員にも相談に行ったが、答えは同じで「どれも合法建築なのでやめさせる事は出来ない」。納得出来なかった私は市の法律相談に行った。そこで対応してくれた山崎弁護士の返事も同じもの。1989年11月下旬であった。落胆して席を立ちかけた私にその弁護士がぽつりと言ったせりふが「あとは住民運動ぐらいでしょうか」…そうか住民運動という手があったか、でもこれは大変な事だ…誰かが始めてくれたらお手伝いに馳せ参ずるのだが…
 1990年2月初旬、私は自宅近所・谷地頭町にとんでもない物を発見した。それはマンション建設予告のお知らせ看板だった。私は打ちのめされた気分になった。

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谷地頭町は殆どが2階建て以下の閑静な住宅街で、観光客があまり来ないこのような土地。こんな所に8階建てリゾートマンションとは。私はもう誰かの運動開始を待っている訳にはいかない、自分で始めるしかないのだ。
 私は早速近隣の家を一軒一軒回って歩き、業者に説明会を開かせる署名集めを始めた。私の祖父母以来百年近く住んでいる土地ではあったが、私自身は進学・転勤等で長い空白があったのでみな怪訝な雰囲気で私に問いただした。「あんた誰なのさ」 皆には、この件に便乗して一儲けを企むけしからん輩かも、と疑われたのだろう。しかし、大変好都合だった事は、私が公立高校の教員であった事だ。田舎の事ゆえ、学校の先生と分かるとすぐに胸襟を開いてくれた。我が子が通った高校の先生と分かると尚更であった。時間はかかったが、周辺の住民大半の署名を集めた。
2月28日それらを配達証明付きで建築主に送付。
 3月13日「谷地頭町マンション建設説明会」実施。参加者40名。業者は工事条件等には十分注意するが高さを低くする点では絶対譲歩しなかった。第2回目の話し合いは4月7日、住民たちは高さの点にこだわり低くするよう再三要求。しかし業者は頑として譲らない。私達はこの結果を二、三の新聞社に知らせ記事にしてもらった。
そして皆と話し合った…
このまま話し合いを続けても、業者は断固として8階建てを譲らないだろう。どうするべきか?
「自分たちにとって迷惑」「谷地頭の景観守れ」という運動だけでは下手をすると、市民多数の共感を得られなくなり敗北してしまう心配がある。
全国のあちこちで高層マンション反対運動は起きたが、多くは敗北した。それは業者対周辺住民という小さな対立に終始したからだと思う。市も、面倒な事には首を突っ込みたくないので、「両者でよく話し合ってください」で済ませようとする。


 新たな運動目標を設定

 しかし、実は函館には市民、市役所、市議会との合意で作られた「函館市西部地区歴史的景観条例」(1988年)というのがある。施行されてまだ間もない。
つまり、町全体として景観に関心が強い所なのだ。1988年12月に市が行った調査では市民の約89%が「函館市の街並みや建物を好き」「保存したい」と答えている。
局所的な、業者との戦いのみに終始するのではなく、函館市西部地区の景観を守るという大きな目標を掲げてはどうか、この方が市民の共感を得られる・・・・・・・。
函館西部地区の景観を守るため、もうこれ以上の高層マンションは建てさせない
こう目標設定すると、谷地頭から飛び出して一気に市全体の問題となる。そうすると市も議会も乗り出さざるを得なくなる。景観条例を定めた責任があるからだ。
「私権の制限は出来ません」と言っていた市だが、条例自体が私権の制限の前提の上で成り立っているものなので、そんな事は言っていられない筈だ。目標は決まった。
そして、これは近所のマンション問題が起きる以前から私が望んでいた事だった。
 このような目標を立てた以上、我々も心構えを変えなくてはいけない。自分の土地ばかりではなく、西部地区全体の事を考えた運動を心掛けなくてはいけない。
触発されて私達のような住民団体が他にも出来つつあったので、それ等と共にこの目標を一致して掲げる事、出来る限り協力し合う事が必要だ。更にはこちらから地上げが疑わしい土地を探して歩き、業者から申請される以前に近所の人に団体を作ってもらうという、先手先手の行動もとった方がいいだろう。事実この後は頻繁なパトロールを開始した。
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 運動体の結集
 
上記の目的実現のために、高層マンションに怒りを感じている組織や、地上げにあっている土地周辺に出来た団体に声を掛けて、皆で相談する会合を開いた。
怒りや目的は同じ仲間なので、話はすんなりとまとまり、函館西部地区の景観を守るという目的の下に集まり、今後はこの為に協力し合う事、役割分担、それに運動体の名前を決めた。
「函館西部地区の高層建築を考える会」(1990年4月11日)が誕生したのだ
参集した団体は以下の6団体である。

 「谷地頭15-7のマンションを考える会」 「元町地区のマンション建設に反対する会」
  「末広町のマンションを考える会」「函館の歴史的風土を守る会」「函館民宿観光協会」「元町倶楽部」
 
4月17日この団体で陳情を行ったが、このグループの中に石井さんという経験豊富で街並み保存に情熱を持った市議会議員がいて、沢山の知恵を授けてくれた。
陳情に行くときは、新聞記者を必ず伴い、市だけではなく、市議会にも陳情文を提出する事にした。それは景観条例は、市民、市役所、市議会で作ったのでこの三者に訴えるためだ。この時の陳情の参加者は50名近くで、近年最大の陳情団と新聞で紹介された。

 陳情内容は…「函館市西部地区歴史的景観条例」の実現のために市や市議会はもっと 努力をしてくれ、条例で不備な点を改めよ、もっと住民のために力を貸して欲し等々

 これ以降、問題が生じる度に何度も何度も陳情し、ビラ撒きや署名集めは、合同で、個別で、と頻繁に行った。この結果、ほとんど毎日のように反対運動が新聞紙面に踊るようになった。地方紙や全国紙も次第に単なる運動の報告だけではなく、新聞社としてのバブルに対しての批判や、景観行政への提言、市民の投書等で、この運動を掘り下げる記事が増えていった。そしてこれに伴い私達の連合体に加わってくる団体も増えていった。以下が、その後に加盟した8団体である。

  「青柳町高層マンション建設規制を求める会」「函館山登山口地区の高層建築を考える会」
  「立待岬の景観と住吉浜の環境を守る会」「谷地頭の住環境を守る会」
  「日本聖公会函館聖ヨハネ教会」「函館ハリストス正教会」「カトリック元町教会」
  「日本キリスト教団函館教会」

約三か月間で、14の団体に膨れ上がったが、参加したお年寄りたちは不思議と皆以前より元気になった。この14の内、実際にマンション建設への手続きに進んだのは7つの予定地であった。そして、この七か所はどれもみな建設を断念する事になった。


 運動の具体例

 七か所それぞれに事情が異なるので、断念へのいきさつを全て述べる事は紙面の関係で困難だ。ある地域では漁師のおばさん達の強力で粘り強い運動に嫌気をさしたり、斡旋、調停と条例で定められた手順を延々と続けている内にバブルに陰りが見え始めて断念とか、函館山中腹の兵舎跡地を地上げした業者は住民に協力した議員たちの調査で国土法違反が発覚し断念した。
 ここでは、最もドラマチックであった「ヨハネ教会横のライオンズマンション」の例を紹介する。
5月の末頃、ヨハネ教会のハンセン神父より隣接地にマンションの建設計画があって困っているという電話が私に入った。建築主は大京で高さは一部5階建て程度ではあるが この地は 重要文化財のハリストス正教会 ヨハネ教会 カトリック教会 それに 東本願寺の4つが四ツ辻で隣り合っているという大変に宗教色の濃いところで函館の聖域だ。 下図
下の図を見て欲しい。景観条例の線引きのすぐ外側になっている点に注目して欲しい。皮肉な事だが、マンション業者が最も嫌いなのは高層マンションだ、それは景観を破壊するからだ。近くにあれば自分の物件が売れなくなる。しかし上のような例では線引きの内側にはマンションが建つ心配が無いので、自分の物件は優良物件となる訳だ。こんな調子で境界のすぐ外側にどんどん建っていく。



もしもこのマンション建ってしまったなら 函館市民は何をしているのかと全国の笑いものになるであろう。 しかも すでに確認申請は下りているというのだ。 私たちの会ではこれを最重要課題として取り上げ、この計画の存在を広く市民に知らせるべく運動を始めた。 市民の神経を逆撫でするような業者のやり方に強い怒りを覚えるが、 この地域は観光客に最も人気の土地なので、函館の景観問題を更に全国的に訴える 良いチャンスである。我々はビラ撒きや署名集めに力を入れたが、市会議員にもこれを市議会で審議するように働きかけた。
石井議員の努力もあって 5月31日に 「景観に関する市長との対話集会」が実現したが、ここでは市の無策に対する不満が吹き出し、インタビューを受けた市民は皆心から怒っていた。特にヨハネ教会隣の計画に対しては強い非難がぶつけられた。翌日開かれた臨時市議会ではこのマンションについての緊急質問が行われ、 数日の論議の後、結局は全会一致で建設に反対することが決議された。市長自らも「建設中止を業者に働きかけます」と言わざるを得なくなった。
議会の動きとは別に私は、事務局長 ハンセン神父の3人と、かねてからの計画通り上京し、大京本社と文化庁に直訴したり 東京都民にマンションの不買を訴えたビラを配ったりした。これには、NHKの取材班も同行し、我々の動きは全て取材され、翌日には放映された。数日後市長も上京したが、社長より建設を強行するつもりはないとの返答を得て、これでひとまず住民の勝利に終わった。 一度確認申請が下りたものを市と市議会でそれを反故にしてしまうという前代未聞の事が実現できたのだ。 この一連の動きは 新聞やテレビで全国に報道されたため、函館の景観問題は更に全国的に知られるようになり 私たちの目論見は成功した。
◎NHKが9時からのニュース番組の中で「函館の高層マンション反対運動」という特集番組を組んでくれて全国に放送してくれた(6.15)。
◎私は朝日新聞の論壇という大きな投書欄にこの件を投稿したが、1週間も経たないうちに採用されて全国から激励の手紙が届くようになった(6.18) 国民全部がバブルに怒っている、それを実感した。
◎東京では大京本社を含む繁華街で「買わないで下さい、函館のマンション」というビラ撒きをしたが、この時東京で配ったビラを赤旗の記者が偶然どこかで入手し、急いで函館まで取材に来てこの一連の運動を赤旗の第一面全部を使って報道してくれた(日曜版6.24)。
以上はほんの一部であるが、このような沢山の報道により、函館のこの運動は全国的にも知れ渡り バブルに抵抗する数少ない市民の運動として報道されたのだった。
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 現在の函館

 当初は及び腰の市であったが、我々の声に押され、可能な施策を模索し始めた。当時我々は市を非難ばかりしていたが、その努力は評価したい。景観に有益となった市の施策を列記する。
 1990.4月17日函館市 熱海等へ調査のため 職員を派遣。 5月31日 市長との対話集会に応じる(青柳小学校にて)。6月11日 函館市長も大京の北海道支店 東京本社を訪れ建設中止を要請。 7月15日 中高層建築に関する指導要項施行。 8月1日市、西部地域を地下監視区域に指定する。9月10日 景観審議会答申「高度地区指定が必要」。11月14日景観審議会の答申 「景観地域の一部地域を高さ制限 13mに規制強化すべき」という答申が出た。12月13日市長の表明「将来景観条例を全市に拡大する」 1991.6月28日「高度地区」施行される。 7月10日「 函館山山麓地域における建築物の高さにかかる指導要項」。
ここで特に評価したいのが、高度地区指定だ。これにより函館山山麓地域の高台付近はぐるりと13mの高さ制限を受ける事となり、今なお、この地域の景観保全には大きな役目を果たしている。
以前ならこの制度は地権者から猛反発が出たであろうが、連日新聞を賑わす住民運動のうねり前では地権者たちも沈黙せざるを得なかったのだ。


 「景観守れ」だけではなく「教会への敬意」が根底に

 このライオンズマンションの建設が何故こんなにも市民の反感を買い、市議会が全会一致で反対決議をしたのだろうか? 西部地区には既にたくさんの高層マンションが建っているのに。
私達が街中でこのマンション建設反対の署名活動をしている時によく聞かれた言葉は、多数を要約すると、次のようなものであった。
「この函館の神棚みたいな所に、金儲けのためのリゾートマンションを建てるとはけしからん」
別にクリスチャンではない人々もこの地を特別な場所「神棚みたいな所」として認識している。そして、そんな所に建てるとは! と怒っている。 それは何故だろう。
 小高い所に独特の形をした教会が3棟並んで立っている。そこには祈りの生活に身を捧げている聖職者たちがいる。一切の俗の欲を捨てて清貧に甘んじ、神との対話を求める姿は一般市民にも敬意を払うべきものと映っているのだろう。

 更には、函館において、キリスト教が果たした役割にも目を向ける必要があろう。国際的な港町ゆえ、当時の函館には江戸末期から沢山の宣教師が入って来た。次に示そう。

・天主公教(カトリック 安政6年、フランスの宣教師メルメ・デ・カションが来函したのに始  まる。その後、文久3年の帰国まで医療・フランス語教授などに従事。フランスから3人  の修道女を招き、孤児院病院授産施設学校建設と函館の社会福祉に大いに貢献、ト  ラピスト修道院トラピスチヌ修道院設立)
・ハリストス正教(ロシア宣教師ニコライが文久元年に来函したのに始まる。明治2年に帰  国したニコライは、再び明治4年来函し、本格的な伝道に乗り出す。ロシア病院を作り  市民にも開放、伝教学校、正教学校を設けて、伝道師養成や児童教育に努めるなど  して、徐々に教線を拡張していった。)
・日本基督教会(桜井昭悳が明治16年、相生町に教会を設立したのに始まる。同23年に  は教会内に共愛倶楽部を設け、職業指導あるいは禁酒運動を展開。)
・日本組合基督教(元治元(1864)年函館より渡米した新島襄の感化育成に溯源し、直接  的には明治32年、牧師二宮の函館伝道に始まる。)
・日本メソヂスト教会(明治7年、米国美以教会伝道会社のエム・シー・ハリスが来函し    て、函館美以教会を創設したのに始まる。)
・日本聖公会(明治7年、英人ウォルター・デニング宣教師が来函・伝道したのに始まる。  同22年に靖和女学校、同25年にアイヌ学校、同29年に函館伝道学校を設置して教育  界に大きく貢献。明治31年東川町に施療病院を創設)
 
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以上から分かるように、学校、孤児院、病院、授産施設、といったものが宣教師たちによってもたらされている。当時の函館はそれらのいずれの点でも遅れており、開拓使もその必要性を認識はしていたが、とても手が回らなかったというのが現状であった。だから開拓使側もこれ等の面で宣教師達の活躍をあてにし、学校建設等ではさまざまな優遇措置を講じている。
 当然それらの施設の中では宣教師・修道女・信徒と一般市民が触れる機会も多く、つまり宣教の機会も増えるため、明治6年の解禁以降徐々に信徒数を増やしていったが、明治9〜10年に堰をきったように函館市中にキリスト教信者が増加した。(元町教会:明治元年からで計369名に)

 キリスト教の市民への浸透を窺わせる文を函館新聞に探った。明治21年12月25日付
『基督隆生祝日ハ近来東京横浜をはじめ之を祝して集会贈物をなすもの年々にさかんなりしが当地にても本日ハ同祝日なりとて居留の英米人の家々ハ素より元町遺愛女学校等にてハ、前夕より賑はしき集会を開き種々の音楽遊戯等を試ミ、又祝ひの松へハ種々の贈品をむすび生徒又ハ懇意の子供達へわかつ抔なか々々面白き光景にてありし』いふ』(クリスマスの紹介)
 一方、神仏の世界に住む人々は、このキリスト教が庶民化することに大いに警戒の念を抱き、国家神道の成立期とされる明治23年の頃に至ると、「排耶蘇教演説会」が時を置かず頻繁に市中のどこかしこの寺院で実施されるようになるが、神道事務局が新聞に載せた記事である。
『各地とも耶蘇教を信する者ハ男子よりも女子の多きは全く婦女子に教育なきゆえ、宣教師の甘言を信じ理非を弁別する能はざるより起こるものならん』(キリスト信者増加への反発)このように、新聞紙上にもキリスト教にかかわる記事が増えていった。

 社会事業以外でも、外国の艦船が寄港すると、水兵たちが街中に繰り出したり、行事の際には港から教会まで軍楽隊のパレードが行進したり、野外ミサが市民に公開されたりと、異国への憧れを盛り立てるようなチャンスが沢山あったようだ。現代でも、ミッション系の幼稚園、中学、高校、老人施設の存在、野外劇、それに社会の耳目を惹く神父たちの活動によって市民のキリスト教への親近感は大きいと感じる。

 函館の貧しい人々の為に活躍した外国人の例として、シャルトル聖パウロ修道女会から派遣された3人の修道女について触れないわけにはいかない。当時の函館は函館戦争の影響も残っていたし、港町の常で、遊郭や孤児、病人が沢山居たが、彼らを救う施設は殆ど無かった。1878年オズーフ司教の要請でやって来た彼女達(スール・マリ・オグスト、スール・カロリヌ、スール・オネジム)は到着するとすぐ仕事に取り掛かり、来函3か月後にはすでに8名の孤児を育てていた。この活動は今でも「さゆり園」として存続している。また、生活に困窮している女性のために授産所を造り、技芸を教え始めた。スール・オネジムは無料の施療院を作り、個々の患者に合わせた膏薬を作ってあげたが、これが街中で評判となった。その内「仏蘭西館」という塾を作り、フランス語、編み物、その他技芸を教えた。これが徐々に整備されていって、今の白百合学園の礎となった。

 以上、キリスト信者たちの活躍を述べたが、第二次世界大戦という不幸な時期を挟みつつも、市民が漠然と抱いているキリスト教への信頼は現在にも続いてきたと思う。
戦後進駐軍の兵隊たちが、大挙して函館に来たが、市民が持った彼等の印象は、
「気持が明るく話しても 自ら好感が湧く 親しみ深い米兵」(昭和20年12月2日付道新)
戦時中の米兵に対する負のイメージは急速に払しょくされていったが、こんな兵隊たちが大挙してこの元町教会に来るようになると、教会に対する戦時中に作られたイメージも好転していったようだ。
皆さんが座っている立派な椅子の一部は彼等からのプレゼントでもあるのです。


 毎日曜日沢山の米兵たちがミサに参加した

長々と述べてきましたが、これら全てが、この地区の景観保全に役立ったと言えるでしょう。

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       函館カトリック元町教会

 函館の高層マンション反対運動(簡略版)

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