この教会は特別な存在なのです!その理由をご存知ですか?




(解説)

@日本でのキリスト教の布教は、フランシスコザビエルによって1549年始められました。しかし、布教は藩主によって認められたり認められなかったり。認められたところでは、南蛮寺と呼ばれた聖堂が建てられたりしました。しかし、1613年の禁教令以降は全国で迫害が始まり、沢山の人が殉教しました。
この時点以降、表面的には信者は誰も居なくなりました。
教会も破壊されました。
19世紀半ばになり、バチカンでは日本の開国への可能性を感じ取り、パリ外国宣教会(M.E.P.)に宣教師を送る準備をするよう申し入れました。(つまり、M.E.P.のみが日本への布教を許された)
1858年に日仏修好通商条約が結ばれると、M.E.P. は3人の宣教師を日本に送りました。一人は長崎へ、一人は横浜へ、そしてメルメ・カションは函館へ( 1859)。
カションは流暢な日本語を話し、社交的だったので、すぐに多くの役人達と親しくなった。そして、到着年1859の年末には称名寺の境内に小さな聖堂を建てました。
(当時の日本は尊王攘夷を叫ぶ武士が徘徊し、下町は大変に危険だったため、長期逗留の賓客は寺院が斡旋された)
(M.E.P. の1859アーカイブズにはそれのカション直筆間取り図が発見されていたが裏付け取れていなかった。しかし2023年三宅理一博士が開拓使に残されていた公的な図面を発見し、また、中央図書館の古写真の中からも特定できた。)
来日した他の宣教師が派遣された地での聖堂建設は、
横浜1862年、長崎1865年である。
  e Paris; M.E.P.) to send missionaries to Japan.After the Treaty of Amity merce between Japannd France was concluded in 1858, M.E.P. sent three missionaries to Japan.One arrived Nagasaki, e i, and Mermet-Cachon in Hakodate 1859.Cachon was fluent in Japanese and was such an energetic man that by the end of the year he arrived he had built a small ch        

Cachon's  church built in the courtyard of the Shomyo Temple



Aこの聖堂の祭壇や彫刻類の殆どは100年以上昔に作られ、イタリア・チロル地方のFerdinand Stuflesser工房の作です。この工房は大変に優れた作品を作って世界中に輸出してきました。それらの多くは輸出先で文化財として扱われています。最近までは殆ど誰もその価値に気付かず、普通な扱いだったと思います。しかし、HP制作の為、聖像たちのクローズアップ写真を撮っていた当方が この素晴らしさに気付き、三宅博士に作者の調査を依頼しました。博士はこの工房迄足を運びましたが、何分にも古い物でその特定には至りませんでした。しかしこの価値がもっと認められ、近い将来にこの作者が特定されると私達は信じています。
ただ、その素晴らしい像達も遠くの薄暗い場所に在って、よく見る事は出来ません。このHPでより明瞭に鑑賞できます。
これ等の素晴らしい像達は、教皇ベネディクト十五世から、前聖堂焼失直後に当教会にプレゼントされたものです。






Maria's eyelids are red and swollen from tears.



In His agony, Jesus said, "Take this cup from me."
But now it's all over.  

 これ等の素晴らしい像は下記のボタンで拡大写真を見る事が出来ます。

The altar statues Stations of the Cross




B1868年に善兵衛という者が洗礼を受けました。
1613年の禁教令から実に255年後のことですが、実はまだ禁教令は有効で、受洗はある意味死を覚悟しての行動でした。事実、長崎では1870年まで捕らえられ、拷問を受け、処刑される事が続きました。
彼は見つからないようにこっそりと式に臨みました。洗礼を授けたのはムニーク神父でした。教会にはここで洗礼を受けた者全ての名を記した洗礼台帳が残されています。幾多の火事に遭いながらも神父たちは必死に守って来たのです。その第一号としてZembei(善兵衛?)が記されています。ここでは、善兵衛さんは第二号のTakachiさんの代父を勤めている事も分かります。



Baptismal register remaining at Motomachi Church


 HOME

C繰り返される大火の度に、聖堂は立て直されました。函館は強風の町、明治期から100戸以上
C繰り返される大火の度に、聖堂は立て直されました。函館は強風の町、明治期から100戸以上が焼けた火事は26回に及びます。
聖堂の再建のために、神父や信者は懸命に働きました。
以下が、当聖堂再建の歴史です。


1859
1’st church in ShomyoTemple.  (The temple was
located not far from the present church)

             

1867
The second church was built on the same site as
the current church. 

       

1877
A large wooden church
        

1910
It was a sturdy Gothic cathedral made of brick.

          


It was destroyed in the Hakodate fire in 1921.
However, the brick walls and stained glass windows
survived the fire.

         
上の写真から分かるように、この火事では元の建物の基礎、ステンドグラス、煉瓦壁は焼失せずに焼け残った。
ベルリオーズ司教は、元の聖堂に大変愛着を持っていたため、全然別な建物ではなく元の聖堂の復元を望んだ。焼け残った物は最大限利用した。
当時の工事用の図面には「元町聖堂 改増築図面」と記されている。
これにあらたに30mの高さの鐘楼と少し遅れて司祭館を付け加えた。聖堂への入り口は、正面から鐘楼の1階へと移された。下が、完成間もない頃に写された写真だが、手前の働く人の服装が兵隊用なのが時代を感じさせる。



Built in 1923 (partly 1910)




これが現在の聖堂の姿である。
私達はベルリオーズ司教の再建のための努力に
大変に感謝している。彼は二つもの教会を建てたのだ。


D十字架の道行きの謎 他教会には見られないこれらは、小さな空間にぎっしりと人物が詰め込まれています。何故でしょう?筆者は7歳の頃からこれを不思議に思っていました。近代日本の教会の道行きは、右下の木彫のような単純な物が殆どです。大変さをおしてまで詰め込んだのはなぜか? 100年前のイタリア製がヒントですが、そこには暗い闇が潜んでいました・・・・・・・




上の十字架の道行きが現代の聖堂で一般的なものです。
しかし、当聖堂のものは下のように人物がぎっしりと詰め込まれています。何故ここまでしなければならないのでしょうか?





 それは、当時の人々が、沢山の事を伝えたいと願ったからです。
百年以上前のイタリアは大都市以外は識字率は低く、40%程度と言われています。ですから、教会のステンドグラスや壁画、聖像類は人々への教育の目的もありました。




では、一体何を訴えたかったのでしょうか?
ヒントを教えましょう!
それは、ローマ兵の取り上げ方を見ると分かるのです。
後は聖堂で考えてみましょうね。

 HOME












































































































 
アクセスカウンター










church

函館のカトリック 改定  元町画廊提供


 
  HOME
                      With gratitude and respect to Dr. Riichi Miyake

          Responsible for the text: Masao Obara